2月の海の記憶


† 1977年 僕は18才だった

僕は大学受験の真っ最中だった。一浪して二回目の受験。現役の時と比べ三倍の六校の願書を出していた。
何処でもいいから受かればいいと思っていた。受かる事だけが目的だったから受験日の都合で志望学部もバラバラで、
一年前と違いレベルの低い大学も含めていた。
三校目の受験の朝、僕は虚しさに襲われ海へ行くことにした。勿論親には告げずに。
「どうして海なのか?」それは分からない。
「どうして虚しいのか?」それも分からなかった。
まるで青春ドラマの演出みたいに酷く陳腐な発想に思えた。でもそれに代わる他の行為は思いつかなかった。
きっと受験というシステムその物に対する、ある種の抵抗であったと思う。
多少でも反抗しているという事実が欲しかったのだと思う。あまりにも無意味ではあったけれど。
僕は受験を受入れてきた。世の中は「少しでも良い大学へ・・・」という傾向になっていた。
僕達はそのレールに乗った。そのレールが何処へ向かっているかも考えなかった。唯一つの目的は「将来の為」にだった。
つまりいい学校に入りいい会社に入る事はいい事だという前提だった。
でも想像力ゼロ、先見性ゼロの中の未来には何も写っていなかった。子供の描く非現実的な夢の方がまだ救われる気がする。
一年間の浪人生活は僕から思考能力を奪った。いつも難しい問題を前に只考え込んでいた。
考えても分からない、答を見ても理解は出来ない状態だった。
僕はきっと「1+1はどうして2なんだろう」という風に考え込んでいたのかもしれない。
たった一問の問題を何日も読み直した。机に向かっている時間を無意味に増やしただけだった。
そして煙草を吸い始め予備校の帰りは毎日のようにパチンコをするようになった。
受験勉強の始まりは中学二年の夏からだった。夏期講習を受けそのまま予備校に入った。
学校が終わると予備校へ行く毎日に変わった。でも高校受験に失敗した。本命と滑り止めの二校とも不合格だった。
そして二次試験で適当な高校へ入学した。
高校生になると僕らは「シラケ世代」と呼ばれた。無気力、無関心、無責任の三無主義というレッテルも貼られた。
そういうことの全ては受験と詰め込み主義の所為だと何処かの専門家がいっていた。
でもその結論にも僕らはシラケていた。多分理由は一つじゃないしもう少し複雑だと思っていたから。
話しを元に戻そう。海の話に。毎年全国の受験生の何人かは海へ向かうのかもしれない。

海へ行って皆上手く戻れるだろうか。

† とある大学受験の朝

混雑した車内のひといきれで少し気分が重い。殆どの人は沈黙している。感情が表れることもない。
時々女性同士の小さな話し声と新聞を折り畳むカサカサという乾いた音が聞える。
僕はそちら側には属していないかもしれない。そちら側とは今車内にいる人達の側だ。 高校を電車通学していた頃はそちら側とかこちら側とか考えてはいなかった。
だからまだそちら側に属していたんだと思う。
多分そういうことを考え出した時点で自動的にそちら側からこちら側に移動してしまうのかもしれない。
駅員から見れば全員只の乗客でしかないだろうけど。
東京駅で外房線に乗り換え、ボックス席の通路側に座った。
窓側には中年のサラリーマンが座って新聞を読んでいた。
前に座っている二人の女性は同じ会社に勤めているようだった。僕よりは十ぐらいは上だろうか。
三十前後であることは間違いないように思えた。所謂普通のOL。中肉中背中化粧、百人並みの容姿だった。
1人はファンデーションが浮いて、一人は唇がマリリンモンロー見たいに捲れていて口紅が真赤だった。
通路側の唇が捲れた口紅が真赤な女性が頻りに上司や同僚の噂話をしている。
窓側のファンデーションが浮いた女性は「そうだね」なんていいながら適当な相槌をうっていた。
電車が走り始めると通路側の唇が捲れた口紅が真赤な女性が「受験?」と僕に話しかけてきた。
多分受験生に見えたのだろう。僕はモスグリーンのスリムのジーパンにキャメルのダッフルコートを着ていた。
受験生に見えることが自分としては少し不本意だった。でも何かに見えて欲しいという具体的な願望もなかった。
「今日はサボって海へ行くんです」と僕は馬鹿みたいに正直に答えた。
急に話しかけられたことで思いの外動揺していたのかもしれない。
声の質感がいつもと違うように感じられた。それも僕にとっては不本意だった。
勿論本意が何なのかは分かっていない。
「明日の新聞に受験生自殺なんて記事にならないでね」と唇が捲れた口紅が真赤な女性はにっこりした。
歯茎が見えた。汚いと感じた。ファンデーションが浮いた女性は終始曖昧な表情で微妙な愛想笑いをしていた。
「ははっ」と僕は不自然に意味も無く笑った。
僕は目を閉じた。眠くはなかったけれど唇が捲れた口紅が真赤な女性と話しているとなんとなく気分が壊れた。
「海とか受験とか虚しいとかそれがどうしたの。何甘ったれてんの」っていわれてるような気がした。
唇が捲れた口紅が真赤な女性は僕に無遠慮に歯茎と現実を突付ける。だから寝たふりをするしかない。
その攻撃から逃れる為に。そして本当に寝てしまった。

† 目覚めると唇が捲れた口紅が真赤な女性から逃れていた

目覚めた時、車内は立ち客がまばらな程度になっていた。さっきの女性達とは別の女性が窓側に一人座っていた。
眠気の覚めないぼんやりした頭のまま、「すみません。今どのあたりですか?」と僕は聞いた。
意外に自然に声が出た。いつもなら人に話しかける事自体が面倒になったりするのに。
そう聞いたとき車内放送のアナウンスがあった。
「定刻どおり千葉を出ました。この先の停車駅は・・・」とアナウンスは続いた。
電車のアナウンスはどうしてこんなに酷い音響なんだろう。ドルビーシステムを導入しろとまでは言わないけれど・・・。
彼女は特に反応もなく視線を外に戻していた。
なんとなく自分と同じ匂いを感じた。僕と同じように「こちら側」にいるような気がした。
さっきの女性達のように僕に現実感を押し付けるようなことはなかった。
僕は通路側の席から窓の外を見る態度で、視野の範囲で捉えている彼女を見ていた。
ショートヘア、白い耳、薄い唇・・・ファンデーションも浮いてないし唇も捲れてなかった。
「どこへ行くんですか」と僕は聞いて見た。
今迄にナンパなんてしたこともなかったが、考えるより先に声が出ていた。
答えは返ってこなかった。答がない時のこと迄考えていなかった。
おかげで少し居心地が悪くなってしまった。でも寝る事も寝た振りする事も席を移る事も出来なかった。
 さっきのアナウンス通りに一つずつ停車駅を過ぎていった。停車するたびに彼女が降りないように祈った。
でもどうして彼女はこのボックスに座っているんだろうか。もうこの車両には殆ど誰も乗っていないのに。
表情からは何も分からなかったが、少なくとも楽しそうではなかった。
終点の大網駅に到着を告げる車内放送が始まった。またズタズタに破壊された音声が無遠慮に車内に響いた。
ここで降りて白里海岸へ行く予定にしていた。電車は大きく揺れながらホームに進入した。そして止まった。ドアも開いた。 彼女はなかなか降りようとしない。僕は仕方なく立ち上がった。その時、
「春には大学卒業なの」と彼女はポツリと言った。

† 海へ

その言葉は独り言だったのかもしれない。僕には向けられてはいなかったかもしれない。
でも僕は期待していた。何れにしても終点だから彼女も降りる筈だった。
だから改札で勝手に待つことにした。
僕は電車を降りた。彼女がまだ座っているのが見える。ホームには誰も居なかった。
ゆっくりと歩き始めた。階段を上り反対側のホームにある出口に向かった。
誰も居ない改札に切符を置いて駅を出た。そして彼女を待った。何もない小さな駅だった。
駅前の幾つかの商店は閉まっていた。
暫くして彼女の姿が見えた。ほっそりとし体に紺のダッフルコートとジーンズを身に着けていた。
改札を出ると僕の傍に立った。意外と背が高かった。一七〇センチぐらいだろうか。
僕のほうが数センチ高いぐらいだった。彼女の切れ長な大きな瞳は僕を見ていた。
けれど視線は僕を突き抜けているみたいだった。二人とも何も喋ることはなかった。
駅から直ぐ海岸と思っていたけれどバスで三十分弱かかるようだった。
彼女は迷う風もなく駅前に止まっていた一台のタクシーに乗った。
タクシーはもう何日もずっと客待ちしていたかのように草臥れていた。僕も慌てて乗った。
彼女はそれを拒絶しなかった。
車内は煙草の臭いがした。きっと今迄吸っていたのだろう。シートはテカテカになっていた。
「白里海岸まで」と僕はいった。メーターを倒すとタクシーは不親切そうな感じで発進した。
粗雑な運転は運転手の気持ちをそのまま表しているようだった。
運転手は僕達に声をかけることもなかったが不審感を顕にしたまま走った。
結果的には一緒に海に行くことになった。僕にとっては予定通りの行動だが、彼女にとってはどうなのだろう。
海に行く予定自体はあったのかもしれない。もし僕と会うこと含めて全てが予定通りだとしたらちょっと怖い。
彼女は「死」を意識していたのかもしれない。
だとしたら僕は道連れ?。理由は?。否、少しだけ気が滅入っていただけ?。
よく分からないけれど一つだけ言える事がある。彼女にとって僕は比較的安全な人間に見えたのだろう。
婦女暴行も殺人もしそうにない只の受験生に。
もし彼女が死を目的としていたなら、僕は救世主だ。
今は自分の事で精一杯かもしれないけれど、何年か後に思い出すだろう。
その思い出に僕は登場するだろうか。「あの受験生のおかげで・・・」という風に。
頭の中は彼女の事で一杯だった。そして一頻り彼女の状況を想像した後、彼女の水着姿が見たいと思った。
思っただけで勃起した。彼女は何を思っていたのだろう。電車にいた時と同じように視線は外に向けられていた。

† 虚しさの答え

答えは簡単だった。
虚しいとかシラケているとか受験というシステムがどうのこうのいっても、
僕は只恋人が欲しくて、誰でもいいからセックスしたいだけだった。

† 抱きしめたい

タクシーを降りる時、運転手は無遠慮な下品な目付きで僕達を見ていた。
彼女がお金を払って降りるとドアを閉めた。ドアの閉まる音も何か下品に聞えた。
そして下品な音を立てて走り去っていった。
僕達は海に向かった。有料道路のガード下を通り抜けると直ぐに海岸だった。
海岸の広がりを見るとなんとなく晴々とした気分になった。
今迄のモヤモヤとした気持が少し晴れたような気がした。彼女の表情も心なしか晴れたように見えた。
誰もいない砂浜を歩いた。海に近づく事もなく離れる事もなく歩いた。
僕が先頭で歩いていた。その後に彼女は続いていた。足音が聞こえないから時々心配になった。
でも振り返らずに歩いた。どのくらい歩いたのだろう。
僕は適当なコンクリートのブロックに座った。彼女も隣に座った。三十センチぐらい離れていた。
そして海を眺めた。今迄緊張していたのかもしれない。
ようやく波の音が耳に届き始めた。
時々犬の散歩のお母さんやヨレヨレのおじいさんが二人の時間の前を通り過ぎた。
彼らは見て見ぬ振りをしてそのまま行ってしまう。どんな風に見えたのだろう。
心中しそうに見えただろうか。駆落ちした二人、生活苦の二人、別れ話をしている二人。
もしかしたら能天気な幸せそうな二人に見えたかもしれない。二月の海にはどんな二人が似合うだろうか。
やっぱり自殺・・・もし自殺したらこんな記事になるだろう。

「受験生と卒業生の心中。Aは受験に失敗していた。Bは大手の企業に就職が内定していたが周囲に不安を漏らしていたという。二人の関係は行摺の可能性を含め現在調査中である」

空は薄い灰色の雲で覆われ風は凪いでいた。それ程寒くはなかった。でも時折微かな風が頬に零度を感じさせた。
所々に夏の残骸が砂に埋もれて残っている。花火の燃えかす、ジュースの缶、ビニール袋、帽子、貝殻、吸殻・・・。
時々僕は彼女の方に視線を向けた。でも直ぐに視線を海に戻した。残像で彼女の横顔をなぞった。
頬のライン、鼻、目、そしてショートヘアと耳。何度も夢想した。
僕はセーターの下のシャツのポケットから煙草を一本取り出した。銘柄はチェリー。
煙草は中央の帯ごと開けるフルオープン派だった。その開け方は少数派だったから、それを僕のステータスにしていた。
この開け方の良い所は片手で胸ポケットから一本取出せるところ。
短所は前屈みになった時、煙草がバラバラと落ちる場合がある事だった。
チェリーも学生の間では少数派だったからそれも僕のステータスだった。
僕は木目調のジッポーのライターを取出し火を付けた。
空気の流れが彼女の方ではない事を確認して、煙草に火を点けた。
勿論そのライターもステータスの一つにしていた。煙草だけで簡単に沢山のステータスは出来上がっていた。
煙は彼女とは反対方向に流れていった。僕は一服すると色々な事を考えようとしてみた。
これからの事今迄の事そして今ここでこうしている事。でも考えを巡らせても白くなるだけだった。
いや思考以前の問題なのかもしれない。
受験勉強で同じ問題を何日も読みつづけた事をまた思い出した。
問題の意味さえ理解出来ず結局問題を解くという行為にさえならず・・・そのうちに煙草の灰のように白くなっていった。
難しい複雑な回路は煙草の煙みたいに何処かに流れ出てしまったのかもしれない。
だからといって単純明解になれたわけでもなかった。

一番簡単な気持ちはやっぱり性欲だった。今ここで彼女を抱きしめたい。そう強く思った。
でも僕には出来なかった。この時間が壊れてしまうのが恐かった。彼女に否定されるのが恐かった。勿論勇気もなかった。
僕の気持とは裏腹に海はただ静かだった。どのくらい佇んでいたのだろうか。
海を見ている以外のことは何もなかった。それは二度と来ない二度と作れない特別な時間だった。
二人はちょっとした人生の分岐点に立っていたのかも知れない。
もしかしたら彼女にとっては道を尋ねられた程度のことなのかも知れない。
でも僕は勃起するほど記憶に残った。

† 受験結果

 六校のうち四校不合格、一校合格、一校私事都合により棄権。

† 中年オヤジ

いつのまにか中年オヤジになっていた。四十代が中年と呼ばれる事に気付いたのは最近だっだ。
テレビは余計な事を教えてくれる。
いつのまにか「そちら側」にいるようになっていた。
あの時感じていた「こちら側」にはもう行けないだろう。
何も変わらないようだけど大きく変わっていた。大きく変わっているようだか何も変わっていなかった。
今はそんな心境だった。大学は卒業した。バブルは崩壊した。会社は五回変わった。
転職しているうちに終身雇用の制度が崩壊し始めた。大手の企業も潰れた。
年金制度も高速道路も破綻し、世界情勢も日本の立場も・・・自分の立場も変わった。
結婚して離婚して再婚した。体重も増えた。子供も生まれた。住む場所も変わった。
ラブストーリーも幾つかあった。思い出は風化してきた。

† 約束も名前も

「帰りましょう」と彼女は言った。僕達は来た道を戻った。砂浜を出て有料道路のガード下を歩いた。
そしてそのまま歩いて駅に向かった。駅に着いた時には彼女の姿はなかった。
僕が聞いた彼女の言葉は「春には大学卒業なの」と「帰りましょう」の二つだけだった。
二人の間には約束も何もなかった。お互いに名前さえ分からなかった。

† 中年オヤジU

 煙草を止めて十年になる。喫煙環境もここ十年で随分変わった。
そういう意味では止めてよかったのかもしれない。久しぶりに木目調ジッポーを手にしてカチカチャしてみる。
オイルを入れて火を点けた。いつからかまた吸い始めようかなと思っている。

ふと、もしかしたら彼女は唇が捲れた口紅が真赤な女性との話を聞いていたのかもしれないなぁ、と今頃今更ながら思った。・・・もしかしたら僕の自殺を止めようとしていたのかもしれない。


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