君の記憶のパートナー


†プロローグ

「このまま進んで」と女はいった。
「早く、自爆するわよ、言われた通りにして」

夕方、交差点で信号待ちしている時だった。女が突然助手席に乗り込み、 手榴弾らしき黒い卵形の塊を目の前に差し出した。 何が起きているのかよく分からなかった。
「早く!」 女は手榴弾を握っている右手をもう一度目の前にぐいっと差し出した。 慌ててアクセルを踏んだ。 タイヤのギュッと軋む音がした。前の車に追突しそうになり、慌ててブレーキを踏んだ。 その衝撃で身体が前後に揺れた。女の体も揺れた。 後ろの車のクラクションの音が聞こえた。 全てが断片的に動いているように感じた。
「なにしてるの!」と女はいった。
「誰だ」と僕はいった。 女は何も答えなかった。

今度はゆっくり走り始め時速四五キロまで上がった。汗ばんだ手の平をハンドルで擦った。 今のところ行き先の指示はない。 無意識にいつも曲がる交差点の手前で右へウインカーを上げた時「曲がるな」といわれた。

見覚えのない若い女。 カージャック?
目的は?思考の速度は極端に落ちていた。
目的は?・・・ゆすり?誘拐?無目的?愉快犯?。 手にしている爆弾は多分オモチャだ。だが確信はない。 でももし本物だったら、どうすればいい?いったい誰?
目的は?・・・堂々巡りだった。

もしかしたら大変なことになるかもしれない、と感じ始めた時、
「私が誰だか分かる?」と女はいった。 ややハスキーな声。ようやく声の質を理解出来るようになった。しかし全く聞き覚えがなかった。
「分からない」と答えた。そして、なるべく落着いた声で「どういうつもりだ」といった。

しかし無視された。 兎に角今は真直ぐ走るしかなかった。 その時、運転席と助手席の間のカップホルダーに置いていた携帯が鳴った。 女は少しビクッとした。でも取れとも取るなとも言われない。 着信音で妻からのメールだと分かったが、どうすることも出来ない。 着信音は既定の回数を鳴らして静かになった。

それでも自分自身、少し落着きを取戻しつつあった。 以前に何処かで関った事があるのだろうか。 自分の記憶を総動員しようと試みた。でも簡単には過去を辿ることが出来なかった。 何処の記憶を呼び出せば、サーチすればいいのか、それすら分からなかった。 思い出そうとする行為そのものを忘れてしまったようだった。 視界に写る範囲で女の様子を観察した。 白いTシャツ、ジーンズ、サングラス、軽くカールのかかったショートヘア。 細い、細すぎる身体。それ以上のことは何もわからなかった。

もう自宅周辺からは外れていた。
「本当に私が誰だか分からない?」と女はいった。 僕はさっきと同じように「分からない」といった。 女の顔を見るために左を向こうとすると「見ないで」と女は小さい声で言った。 弱々しい声だった。車に乗り込んできた時とは明らかに違っていた。

「青」とだけ女はいった。 信号が青になったのを気付かなかった。 いや、赤で止まっていたことすらわかっていなかった。 僕はまた走り始めた。  その時、女がシートベルトをしてないことに気付いた。 このまま急ブレーキを踏めばなんとかなるかもしれない。そんな考えが脳裏をよぎる。 でも前後に車が多い。もう少し走ってタイミングを見てからなら ・・・いや駄目だもしかしたら急ブレーキをかけた瞬間、女は爆発させるかもしれない。 その意思はなくても振動で爆発してしまうかもしれない。リスクが大き過ぎる。 「手に持っている爆弾らしきものはダミーだ」と自分にいい聞かせようとしたが、 やはり百パーセントの確信は持てない。

金目の物を取られるかもしれない。車も取られるかもしれない。 相手が女だからって油断は出来ない、男が何処かで合流する可能性もある。 最悪、殺されることも考えなければならない。それとも新手の売春か。 やはり今のうちに一か八かで急ブレーキか電柱にでもぶつけて・・・。 警察が取締りでもやっていればシートベルト未装着で止められるかもしれないが、 そういう時に限って何もしてない。まったく警察は役に立たない。

いっそ窓開けて叫ぶか・・・「誰か助けてくれ」って。 その時、突然「その先の地下鉄の入口で車を止めて」と女はいった。 そして勝手にハザードランプボタンを押した。慌ててブレーキ踏んで減速する。 他の車は避けて行く。そして追い越し車線から走行車線に車線変更しガードレールの側に停車した。

女は「もう少し前」といった。 いわれた通りゆっくり進んだ。女はガードレールが切れた場所で停止を指示した。 停止すると女はサングラスを取って僕を見た。僕も女を見た。数秒間、目と目が合った。 そして何もいわず女はドアを開け車から出ていった。そして地下鉄の駅の入口へと消えていった。

今迄無呼吸だったみたいに「ふーっ」と息を吐いた。そしてハンドルから手を離した。 腕が痛かった。まるで長時間同じ姿勢で運転した後みたいに。 車から降りて歩道にある自動販売機で冷たいお茶を買い、一気に飲み干した。 そしてもう一度大きく息を吐いた。 それから思い出したように地下鉄の入口を眺めた。当然もうあの女の姿は何処にも見えない。 足も少し萎えていた。その場で軽くジャンプしてみた。身体が酷く重く感じた。 暫く外で呆然としていた。頭の中は真っ白だった。ただ七月の暑い日ざしを浴びていた。

車に戻るとT・Rexの「Mystic Lady」がかかっていた。 僕が中学生の時によく聴いていたバンドだ。今では伝説のグラムロックといわれている。 もう三十年以上も前のことだ。 レコードで聞くのもいいが、運転中も聞きたくなって最近CDを購入したばかりだった。
「いい曲だな」と思った。
僕は心底ほっとしていた。シートに座ったまま暫くCDを聴き続けた。 「Mystic Lady・・・神秘的な女性」あの女が乗っている間は音楽は全然耳に入ってこなかった。

今日は妻が中学校の同窓会へ行くので、駅まで送っての帰り道だった。 車を走らせる前にメールのことを思い出した。
「カレーのルー忘れないで」
ただの念押しのメールだった。こっちが大変な事体に陥っている時にのんきなものだ。 今日の晩御飯は子供達とカレーを食べることになっていた。 でもルーを買い忘れていて、妻を送った帰りにスーパーで買って帰ることになっていた。 出掛ける前にも言われていたことだった。

スーパーでカレーのルーを購入して帰途についた。そして運転しながら思考を廻らせた。 よく考えるとこれは事件だ。犯罪だ。警察に通報するべきことではないだろうか。 しかし少し時間が経ってしまった。カレーのルーまで買ってしまった。 突然解放されて、実害も無かったせいで気が回らなかった。 今から通報しても、「何故直ぐに通報しなかったのですか」なんて聞かれそうだ。 明確に答えられそうにない。 もう面倒臭いというのが正直な気持ちだ。それに早く家に帰りたかった。

「知らない女性にカージャックされました。被害は約三十分。 精神的疲労累積時間は三十分×係数(3.14にしておこう)。損失ガソリン。 燃費はリッター十キロ換算。更にタイヤの磨耗。以上報告完了」こんなところだろうか。

もう一つ悩んでいるのは妻には報告すべきかどうかだった。。 犯人が男だったら悩む必要はなかったが、女だけに余計な嫌疑をかけられるような気がした。 そんなことを考える必要もないのかもしれないが、兎に角妻に説明するのが億劫に思えた。 女に見覚えはないし、カージャックされる理由もない。 隠す必要なんてないのかもしれないけれど・・・。

今年は特に暑い。観測史上一、二を争う暑さだ。おかしな人が出るのはその所為かもしれない。 そう考えたほうが随分楽かもしれない。暑さの所為なら辻褄だって全部合う。 そういう風に深刻にならず軽い感じで妻に話せば、笑い話になるだろう。

気になるのは、女が車を降りる直前の様子が攻撃的ではなかったこと。 最後はまるでタクシーのように地下鉄の駅入口に止めた。 それから助手席のサングラス。忘れたのか置いていったのかわからない。 僕はもう一度そのサングラスを手に取り眺めた。特徴のない普通のサングラスだった。



つづく(来週末予定)
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