君の記憶のパートナー


† 二〇XX年の秋

異常気象の夏は、僕に疲労感を残して過ぎていった。 最近は毎年のように異常気象だといわれている。 もう異常なのが普通になっているようでもある。 それでも自分の生活は何の変わりもない。 カージャックも、同窓会に出席した後少し様子が変だった妻のことも異常気象も随分昔の出来事みたいだった。 残暑は厳しく、ようやく過ごしやすくなったのは十月下旬だった。

朝、六時四十五分に家を出る。 駅まで歩いて十分ぐらい。電車を乗り継いで通勤時間は約九十分。 会社に着くと先ずパソコンの電源を入れる。 トイレに行って戻ってくるとちょうどパスワードを入力する画面になっている。 パスワードを入力。メールを確認。 一五〇ミリリットルのペットボトルのお茶を飲む。他社の人間と挨拶代わりの雑談。 今日もいつもと同じ変わりない生活。そして仕事が始まる。
会社といっても自社に行くわけではなく、仕事先の会社に出かけてそこでシステムの開発を行う。 自分の会社は小さいソフトハウスだ。 大手のソフトハウスやメーカーが営業して取得したきた仕事をソフトハウスの人間が集まって開発する。

自社開発製品を持たない会社は、仕事の受注や開発環境を用意出来る大手メーカーに頼る傾向にある。 だから今までも自社に居たことはあまりない。月に一度報告書の提出に出社するぐらい。 会社側がどう思っているかしらないけれど、自分自身は派遣会社のように感じている。 実際自社に誰がいるかも分からなかった。 一つのシステムが終われば他のシステム開発の所へ行くことになる。だがここ数年は同じところに通っている。 納品したシステムの保守と小規模ながら年々追加機能のオーダーがあったからだった。

今は以前のように遅くまで残業することはなくなった。 バブルの頃とは違い開発費はかなり抑えられているからだ。 その分高い生産性や品質を求められる。更に不要になれば直に切られる。 バブルの頃のように数をそろえればいい時代じゃなくなっている。 当時は人集めのためにどの会社も研修と称する海外旅行があって求人の目玉商品見たいな感じで謳われていた。
「素人歓迎。一から親切に指導します」なんてキャバクラみたいな募集広告も多かった。 でも今はそういう求人はしていないだろう。ちゃんと学校での成績が上位の人を採用しているみたいだ。

1980年代から1990年初頭のバカなバブル時代は、僕達一般市民には高い住宅ローンを残しただけだった。 政府もあの頃の住宅ローンに対する政策を考えて欲しい・・・なんて思う。 ローンはまだ十年残っている。でも海外研修の恩恵は受けたけど、それだけかもしれない。

「やっぱり大学では優秀だったのかな」 ボクは隣の席の鈴木君に話しかけた。
「どうしたんですか突然」と彼はいった。 彼も何処かの会社の人間で十五歳ぐらい年下だったが比較的相性がよかった。 相性っていうのは年齢は関係ないんだなと思った。
「この仕事に入るきっかけというか・・・」
「そういうことですか。まぁまぁですよ。可もなく不可もなくで、中の上から上の下ぐらい」 そういって彼は僕にも同じ質問をしてきた。僕は掻い摘んでバブルの頃の求人形態を話した。
「結局は卒業後入社した会社は二年ぐらいで辞めちゃったから。それで素人歓迎のこの業種にしたんだけどね」
「僕だってそういう意味では変わらないですよ。結局就職難の時代だったし入りやすい会社を選んだだけですから」
なかなかいい回答だった。
「そういえばあのカージャックの事件どうなりました。あれから何かありました?」と鈴木君はいった。
「いや何もないんだ。もう完全に終わったような気がしているよ」
「悪意がないんなら用事があったんすよ。何か伝えたいことがあったんじゃないすか。 本当に用事があればまたくると思いますよ。もしかして風俗の子で店に来て欲しかったんじゃないすか」
「鈴木君と一緒にしないで欲しいね」
「最近行ってないすよ。そういう店」
「月末だから金欠病か・・・」
「まぁそんなとこすね。今度一緒にメイドカフェ行きましょうよ。前に一度行きたいっていってたじゃないすか」
「メイドカフェか・・・モエーか・・・」
「それなら奥さんだって怒らないと思いますよ」
「怒らないかもしれないけど・・・機嫌は損ねるだろうな・・・妻に着せるか・・・」
「あっいいすね。そしたらオレも行きます。撮影会しましょうよ」
「やっぱりオタクだな」
「今やオタクも完全に市民権得てますから」
その時始業のチャイムが鳴って話は中断し仕事を開始した。 仕事を始める前に「変な事件も多いから気をつけた方がいいすよー」と鈴木君はいった。

定時で仕事を終えて、会社を出た。家には携帯電話のメールで帰宅を伝えた。 駅へ向かう途中いつものように本屋に寄った。雑誌のコーナーを物色してから目を上げると、 向かいの女性雑誌のコーナーに見覚えのある女性がこっちを見ていた。 でも「見覚えのある」という感触は温かみのある懐かしいものではなかった。 三キロ先のL版の写真を見て顔も姿もはっきりしていないのに、 直感的に分かってしまうような胸に突き刺さるような感覚だった。
「久しぶり」とその女性はいってにっこり微笑んだ。なんだか少し嫌な予感がした。
「やぁ」と僕は力のない声でいった。会っても困る事はなかったが、出来れば会いたくはなかった。

僕達は会社から少し離れた所にあるチェーン店の珈琲屋に入った。座り心地のいい大きい椅子だった。 僕は個人経営の喫茶店よりチェーン店の喫茶店の方が好きだった。 広い空間とすわり心地の良い椅子でのんびり出来たし、拘りの押付け的雰囲気がないのがよかった。 それは学生の頃から変わらなかった。そんなことを急に思い出した。もう二十年以上前の話だ。 元妻に会うのは離婚して以来初めてだった・・・十七年振りぐらいだった。

「家には電話したの」と元妻は聞いた。僕は黙って頷いた。
「家にはなんていったの」
「お気遣いありがとう。でも少なくとも元妻と会うからとはいってないけど」と僕はいった。  元妻は少し笑った。そして左手で、細い指で、珈琲カップを持ち、 何かを確認するように珈琲を少し凝視してから飲んだ。その仕草は変わっていなかった。 こうして二人でいるとあの頃と何も変わらないようにも思えた。 小さい顔、大きな黒い瞳、長い髪、ロングスカート・・・顔は前より小さくなったかもしれない・・・ 歳のせいかもしれない。 彼女はモノトーンで統一された高級そうな服を着ていた。僕は今年で三年目になる冬物のスーツを着ていた。
「少し太ったわね」と元妻はいった。
「少しじゃないけど・・・変わらないね」と僕は元妻の顔を見ていった。
「変わったわよ。年とったから」と元妻はいった。
「どうしたんだ急に」と僕はいった。
「どうもしないんだけどね。なんだか不安そうね」
「そういう訳じゃない」
「そうかしら。やっぱり私のこと分かってないのかもしれない」
「そうかもしれないな」と僕はいった。確かに分かっていないのかもしれない。でもそれも今更の話だ。
「お願いがあるのよ」と元妻はいった。それを聞いて少し動揺した。
無理難題か、意味不明か、摩訶不思議か、金銭関係ではないと思うが、 そんなことを考えていると元妻は顔を近づけてきて 「心配でしょ」といった。僕は「別に」といって珈琲を飲んだ。 そしてそのまま僕が珈琲カップをテーブルに置くまで黙って僕の顔を見ていた。

「私と寝て」と小さい声でいった。 僕は珈琲をまた一口飲んで元妻を見た。少し動揺した。
「どういうこと?」
「安心して、貴方の家庭を壊すつもりはないから」
「無理だよ」と僕はいった。
「そういうだろうと思ってた」といって鞄から名刺を取り出してテーブルに置いた。
「気が向いたら来て・・・」そういって元妻はあっさりと席を立って行ってしまった。 僕は元妻を追うことも声を掛けることも出来なかった。 僕は暫くの間、名刺には手を触れずじっと見ていた。素敵なデザインの名刺だった。 横文字の会社名は読み方が分からなかった。肩書きはインテリアコーディネーター。 それから取得した資格やらなんやら細かく書かれていた。念願の自分の事務所を持つことが出来たようだった。 名刺を手に取り裏面を見た。手書きのメッセージが綴られていた。

十一月十九日 パーティーします。待っています。

そのメッセージの下に自宅の住所と携帯電話番号が記されていた。 僕は手帳でその日の曜日を確認した。金曜日だった。 今日は十一月十一日木曜日。名刺をそのまま手帳に挟み、椅子に深く座ったまま、ぼんやりしていた。

「帰り際に急ぎの問合せがあったけど、思ったり早く終わったよ」と僕はいった。
お客さんから問合せの電話があってデータの調査をするのはよくあることだった。 そういう時は大抵即時の対応を強いられた。
「良かったね。早く終わって。電話すれば駅まで迎えに行ったのに」と妻は食事の仕度をしながらいった。 今日は元妻と会った後ろめたさがあり、電話もせず駅から歩いて帰って来た。
「たまには歩こうかなと思って」と僕はいった。 妻はもう子供達と先に食事を済ませていたが、僕の食事にビールを飲みながら付合った。 僕達はテレビを見ながら今日のことやとりとめのない話をした。そしてバラエティ番組を見て笑った。 いつも通りだった。 

・・・十九日、と心の中で呟いた。選択肢は三つ。
・行ってセックスする
・行ってセックスはしない
・行かない

パーティーには何人来るのだろうか、僕一人だけなのか。色々悩むより行かない方がいいに決まっている。 結局行きたいから悩んでいるだけだった。今の生活に不満はない。セックスレスな夫婦でもない。 どうして行きたいのか自分でも分からなかった。元妻は今でもセクシーだったけれど、 セックスに釣られた訳でもない。結論が出ないまま時間は過ぎていった。 でも僕と別れてからの元妻の過去と現在に興味があるのは確かだった。 チャットで女性と会話するみたいに、日常とは違う刺激に魅かれている自分がいた。

それにしても元妻は僕を待っていたのだろうか。ただ偶然あの本屋で僕を見かけたのだろうか。



つづく(一ヶ月以内には掲載予定)
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