君の記憶のパートナー


† 初めての刑事

「元奥様の吉田吉美さんについてお伺いしたいんです。宜しいですか。 この先に喫茶店がありますから、そこでお話しましょう」と刑事はいった。 刑事に職務質問されるのは初めてだった。
「何かあったんですか」と僕はいった。
「取敢えずお茶でも飲みながら。お時間大丈夫ですよね」刑事は僕の質問には答えずそういった。 風貌とは異なり意外に丁寧な口調だった。だけど一般市民として受ける印象は強制に近い。 丁寧な礼儀のある脅迫。何もないのに態々刑事が僕に会いに来る筈が無い。
僕は「大丈夫です」と答えるしかなかった。

刑事は迷うことなく、あの時元妻と入った喫茶店に向って歩き出した。僕はやや後ろから付いて歩いた。 店に着くまで刑事は一言も喋らなかった。
店は空いていた。刑事は真直ぐに注文カウンターに進み、迷うことなく珈琲を注文した。 そして僕も続いて珈琲を注文した。
「煙草は吸われますか」と刑事はいった。
「吸いません」と僕が答えると刑事はここでも迷うことなく禁煙席に座った。 僕も後に続いた。
僕のような人間が、こういった状況でどんな風に考えるかなんて熟知しているのだろう。 多分僕が元妻とここで会ったのも知っているのだろう。

「こういうセルフサービスのチェーン店は安くて便利だし、 ウェイトレスも注文取りに来ないし直ぐに話が始められていいんですよ」 そういって刑事は、とても熱そうに口を窄めて珈琲を一口飲んだ。僕も珈琲を飲んだ。
「でも最近は喫煙者の場所がないんですよ。困ったものです。あっすいませんさっそく本題に入りましょう。実はですね。吉田吉美さんが亡くなりまして、 それで少しお伺いしたいことが・・・」 あっさりとした口調で刑事はそういった。もしかしたら聞き間違いかと思えるぐらいに、喫煙の話と一緒に言葉は流れていった。
直ぐには刑事のいっていることが理解出来なかった。
「吉田吉美さんは勿論ご存知ですよね」
「亡くなったって・・・」
「はい。一週間前程」
「どういうことですか」
「どういうことといわれますと?」
「亡くなったって・・・」

死んだという事実を上手く理解することが出来ない。テレビでニュースを聞いているみたいだった。 数々の事件の一つのように僕の耳に響いていた。僕は珈琲ではなく水を飲んだ。
「大丈夫ですか」と刑事はいった。
「あっはい、すみません。でも刑事さんが訪ねて来るってことは・・・」
「いや仕方ないんです。仕事ですから。あまり緊張なさらないでください。 でもまぁ一応聞かせて頂きたいんですが、えーとですね、失礼ですが十一月十九日はどうされていました」

あの日だった。僕が訪ねていった日。 正直にいうべきだろうか・・・でもそんな気持ちを見透かしたように、
「大丈夫ですよ。お家にはお伺いしてませんから。奥様にもお会いしてませんから。 正直に話して頂ければいいんです。正直に。そうすれば何の問題もありません。 ただご返答によっては・・・」と刑事は黄色い歯を見せて笑い、その後の言葉は続けなかった。
「脅してるんですか」
「いやいやそんな、安心して頂こうと思いましてね。それに犯罪を未然に防ぐ起させないということも 警察の仕事の一つですから。例えば嘘とか。こういう時は誰でも躊躇しますから。 人間は一瞬で損得の判断が働きますから。 お話を伺うのを喫茶店にしたのもそういう訳でして。 それでその日の行動をお聞きしたいんですよ。仕事なんで勘弁してください」 と刑事は申し訳なさそうな口調でそういった。

恐らく刑事は僕が元妻のマンションに行ったことを把握しているのだろう。 いや全てを把握している筈だ。そうでなければ喫茶店の筈が無い。
「誕生パーティーに誘われていたんです。それでマンションまで行きました。 八時ぐらいかな、いや八時にはなってなかったと思います。七時半は過ぎてたと思いますが」
「それでお会いになった・・・」
「いや結局会わずに帰りました」
「会わずに帰ったと・・・」
「そうです。結局パーティーには行かなかったんです」
「えーと繰返しますが、その日はパーティーに誘われていてマンションまで行ったが、 会わずに引き返したということですね。時間は十九時三十分から二十時の間ぐらい」
「そうです」
「なるほど」といって刑事は大きく息を吐いた。また煙草の匂いがした。 刑事は胸ポケットに手を入れて、煙草を取り出そうとして止めた。
「どうしてお会いにならなかったんですか」
「それは・・・色々な意味でやはり会わないほうがいいと」
「なるほど。ところで吉田吉美さんとはどういうご関係になっていたんでしょうか」
「元妻です」
「それは分かってますが、パーティーに誘われるってことは、 今でもお付き合いが続いていたのかと思いましてね」
「離婚してから一度も会ってないし、勿論連絡を取ったこともないです。 十一月四日に突然僕の前に現れて、そしてこの店でお茶を飲んだんです。 その時パーティーに誘われたんです」
「なるほど。その四日に会った時、吉田さんはどんな感じでしたか。 落込んでいるとか変わった様子ありませんでしたか」
「いや特に変わった様子はなかったと思います」
「その日からパーティーの日までの間にお会いになったとか、お話したとかは」
「ありません」
「十九日にマンションの下で電話をしたとかは」
「ないです」
「マンションで誰か不審に思われる人物は見かけませんでしたか」
「それもないです」
「そうですか」といって刑事は手帳を閉じた。そして残った珈琲を飲み干した。
「いや参考になりました。ご帰宅の途中申し訳ありません」といって席を立とうとした。
「すみません。私がマンションへ行った時にはもう死んでたんですか。 私は疑われているんですか」と僕は聞いた。
「いやいや」といって刑事はそれ以上は喋らなかった。
「私の証言を信じてもらえるんですか」と僕がいうと刑事は軽く笑った。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」と刑事はいった。
「出来ればどんな状況なのか知りたいんですが」と僕はいった。
「少しお話させて頂ければ、まぁ長年やってると勘が働いて人物像がまぁ大体は分かるんですよ。 外れることもありますけどね。勿論普通はアリバイとか証言の裏付けは必要です。 でも今回の場合マンションのセキュリティーはしっかりしているし、 部屋に出入りした人物もいないし、貴方の人物像も私なりに把握しましたし、 まぁ元々事件性はないと考えていましたし・・・確認だけだったんです。 我々の掴んでいる内容との突合せというか」
「そう、ですか・・・」と僕はいった。
「でも貴方にはお話してもいいでしょう。死亡推定時刻は午後八時から九時なんです。 遺書もありましたし、状況的にも自殺に間違いないと判断しているんですが、 実はその日、マンションの周りに不審な男がいたという通報がありまして、 一応元奥様の知人関係を調べていたんです。まだ全員の方とお話はしていないんですが、 その中の一人があなたです」と刑事は教えてくれた。
「正直にお話していただいてほっとしています。それじゃこれで」と刑事は珈琲を飲み干そうとして、 もうないのに気付き珈琲カップを持って席を立った。

「あのもう一つお伺いしたいことがあるんですが」と僕は刑事を引きとめた。
「なんですかな」
「実際にパーティーはあったんですか。それから彼女が結婚していたかどうか教えていただけないでしょうか・・・」
刑事は一瞬躊躇したが「宜しいですよ」といった。そして少し間を置いてから、
「彼女はマンションに一人でいたんです。パーティーの痕跡はありませんでした。 その日に出入した人物も今の所いません。それから結婚はしていなかったようです。これで宜しいですかな」といった。
「ありがとうございます」と僕はいった。そして刑事は「会わないで正解でしたね」といって、そのまま店を出ていった。

酷く疲れた。僕はそのまま暫く店で1人過ごした。
もしあの日僕が元妻の部屋まで行ったとしたら、自殺は防げたのだろうか。 いや、もしかしたらあの時既に死んでいたのかもしれない。 でもそれだと死亡推定時刻とあわない。だから僕が訪れた時は生きていた筈。 僕がマンションから遠ざかる姿を見て自殺したのかもしれない。 だから二回目にマンションの前に来た時はもう死んでいたのかもしれない。 僕が駅へ行って戻ってくる十分の間に命を絶った。 あの刑事の様子だと他殺はないようだ。

何をどう考えたって結果は変わらない。 元妻がどんな気持ちでパーティーと称して僕を読んだのかも分からない。 もしかしたら僕を恨んでいて、殺人犯に仕立て上げようとしていたのかもしれない ・・・でも結局僕には何も分からない。 きっと夏の事件と同じように時間と共に記憶の奥に仕舞い込まれてしまうだけなのだろう。 解決することもなく。

自分にやましいこともなく、人に恨みを買うようなこともないと思って生きてきた。 でも元妻の死は堪えた。大きな悲しみがある訳でもないし、 酷く落込んでいるわけでもない。 ただ堪えた。でも何もどうすることも出来ない。 分かっている。ただ受入れるしかないんだ。分かっているさ。



つづく(一ヶ月以内には掲載予定)
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